ぽっぽや

鉄道員

 

 

まだ見ていない人

やられました。
泣きました。

「タイタニック」も「ライフ・イズ・ビューティフル」も僕は泣けなかったけど、これにはやられました。
やはり広末涼子が出てくるシーンでした。彼女の正体は映画を見る前から分かっていましたけど、乙松(高倉健)がそれを悟ってからのシーンは涙が出てきたし、周りからもすすり泣きの声が聞こえました。その後も泣けるシーンが続きます。広末はけっこう上手く、健さんと堂々と渡り合っています。彼女が乙松が渡したべストを着る時のしぐさは「思い」が見えるいいシーンでした。
高倉健演じる主人公のぽっぽやは、妻と子供を失った以外は毎日電車の運行を見届ける、何の変哲も無い(ように見える)人生を送りますが、「鉄道員=ぽっぽや」しかできない、一途なキャラは高倉健にはぴったりハマっています。高倉健は一途で不器用な男を演じると、一番光るような気がします。
久しぶりに見た高倉健は、立っているだけで「ぽっぽや」そのものの圧倒的な存在感を見せてくれます。もっと映画に出て欲しいと思いますが、役にふさわしいキャラが来ないのが近年映画に出ない理由かもしれません。「ブラック・レイン」の刑事役はよかったけど、「ミスター・ベースボール」の監督役は今一つだったし(なんといっても映画そのものがひどかった)。
乙松が「俺にはぽっぽやしかできねえ」と言うセリフがありますが、職を模索してフラフラしている人間よりも、乙松のような、天職といえるものを持ってる人は光って見えて、うらやましいです。地味に見える仕事だけど、こういう仕事に就いてる人が一番まっとうに生きているんだろうし、日本を支えてきたのだと思います。
岡田義徳が鉄道マニア役で少しだけ顔を出していましたが、パンフにあったキャスト覧にはチョイ役までは書いていなかったので、せめて全キャストの名前は載せて欲しかったです。パンフには高倉健や広末涼子のインタビューや、スタッフの座談会や美術イラストとか収録してあって、内容は充実してるのですが。
スポーツ紙で志村けんの出演を話題にしていたので注目していたのですが、出番が少なかったのは残念でした。
吉岡秀隆は黒沢明や山田洋次など、じーさん監督(黒沢明は故人ですが、晩年の作品には出ているので)の作品には必ず起用される感じがします。お年寄りの信頼が厚いのでしょうか?奈良岡朋子は久しぶに見た気がします。


映画は過去と現在が交錯する構成ですが、「昭和〜年」のような、過去の年代を特定する字幕が出ないので、初めは過去のシーンは現在から何年前になるのか気になったのですが、映画を見ているうちにどうでもよくなってきました。乙松に「何があった」ということが重要であって、「いつ」というのは、そんなに問題ではないのでしょう。
上映1週間目、日曜午後に横浜で見ましたが、客席はほぼ満席で、客層は若い女性からじーさんばーさんまで幅が広く、アニメ以外では元気が無かったと思われる東映では久々のヒットだと思います。かといって、これで味をしめて「鉄道員2」なんて作って欲しくありませんが(乙松の幽霊が仙次に会いに来る話にでもするか?)。
映画は、時代の移り変わりと老いの切なさがよく伝わって来たと思うのですが、それは、スタッフとキャストに高倉健と同年代のじーさんが多い(みたい)結果、自分達の不安や思いが作品中に自然と出てきたのだと思います。
しかし、じーさんばかりのスタッフだと、一歩間違えば過去をよかったと思うだけの作品になる可能性がありますが、「鉄道員」には今後の老人達の生き方を模索したり、次の世代に希望を持たせたりするような、「これから」を見据える視点が感じられます。それが過去を回想するだけに留まらない、現代にも通じるテーマを持ったおかげで、幅広い年齢層に受け入れられたのだと思います。
その意味では、単にベストセラーだから映画化したのではない、今の時代に公開する意味のある映画になったと思います。
キャラクターは地味だし、派手なアクションや事件も無く(喧嘩はあるけど)、音楽もあまり盛り上がることなく、淡々と話が進みますが、その抑制された雰囲気がいい感じで、日本の大作映画には珍しく、アラが思いつかない作品です。
パンフによれば、高倉健が「哀れな話にはしたくない」と監督に言うと、監督は「五月の雨を浴びるような作品にしましょう」と言ったそうですが、まさにその通りのさわやかな作品でした。

 

 

すでに見た人

秀男(吉岡秀隆)が毎日乙松が駅で送り迎えしてくれたことに感謝したり、敏行(安藤正信)が彼の店の名前を「機関車」というイタリア語の意味の名前にしたりと、寡黙な乙松の人間性を、周りから語る見せ方は上手いし、感動的でした。
広末涼子は、インタビューでは自身のキャラを幽霊とは言っていませんが、確かに、幽霊と言ってしまうには異質かもしれません。育つし。広末はTV「世紀末の詩」第1話でも幽霊を演じていましたが、ここでも初めは彼女が幽霊とは視聴者にも分からない描写でした。
乙松の前に現れる3人の雪子は、3人とも顔が似てませんが、衣装と人形でそれと分かるので、違和感は感じませんでした。
乙松が広末の正体を悟るシーンは泣けましたが、このシーンにはしばらく音楽が流れませんでした。僕が映画で感動するパターンは、「ニュー・シネマ・パラダイス」や「フィールド・オブ・ドリームス」のラストのように、音楽が盛り上がる形が多いのですが、「鉄道員」ではそういった音楽の盛り上がりはあまり無いのに、涙がぽろぽろ出てしまいました。
広末は幽霊のような存在なので、いずれ消えるシーンが出ると思っていましたが、その場合にSFXを使うのか?もし使うのならどう処理するのだろう?と思っていました。ここでイフェクトを全面に出すような使い方をすると、映画の雰囲気をぶち壊しにする可能性がありましたが、結局SFXを使用せず、フレームアウト、それも手が写っているカットで手のみがフレームアウトするという形で済ませたのはいいセンスで、大正解だったと思います。


雪子が去った翌朝、乙松はホームで倒れています。雪子は乙松をあの世に連れていくために現れたという感じもします(いわば死神か)。あるいは、乙松の最後が迫ったから雪子が乙松に会えたのではないかとも解釈できます。いずれにせよ、乙松は心置きなくあの世で家族に再会できたのでしょう。仙次の言う通り、大往生だと思います。
乙松の死の瞬間はまともに描かれず、カメラが駅のホームをパンする時にさりげない感じで、倒れている乙松がフレームインすることで観客はその死を始めて知り、その次のシーンではすでに乙松は棺桶に入っているという、実にさりげない描かれ方ですが、その抑制の効いた描写がいかにもこの映画らしいくて上手いです。

乙松の棺桶を乗せた電車が出ていく時、ホームをロングから捕らえたカットで、ホームに人影が立っていました。乙松亡き後の臨時の後任の駅長かもしれませんが、これ以前にはそういう人物が出てくるカットはないので、この人影が、最後の電車を見送る乙松という解釈もできると思います。ちょいと意地が悪いとらえ方をすれば、乙松が駅に執着してしまって、このまま自縛霊になってしまったという見方もできますけど(見たすぐ後には思いもしませんでしたが、時間が経つとそんな事も考えたりして)。
仙次が乙松の帽子をかぶるところも泣かされますが、運転している小林の最後の表情も泣かせてくれました。

 

 


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