「…!何いってんの?!馬鹿じゃない!!?」

一瞬空気を飲んだ口から出た言葉。
しかし、その侮蔑の色を含む語気に反して黒鳥の顔は固く、いつもの余裕は消えていた。

「お前は物じゃないんだよ。商品じゃないんだよ」
「は?」
「体で金を得るのなんてやめろよ。もっと自分を大事にしろよ」
「だから…だから、何いってんの?」

強く返す黒鳥の顔から次第に血の気が引いていく。

「俺が…守るから」

それに対して言葉を発したその唇は真っ青だった。

「…商品…人間…何だよ、それ」
「俺と行こう。な?もうすぐこの国、出るんだ。一緒に行こう。お前に苦労させたりしないし、もうこんな事もさせない。体の傷だって、ちゃんと治そう。な? オディール」
「そんな名前じゃない」
何度も繰り返される言葉。
「じゃあ、なんて呼べばいい?名前、なんて言うんだよ」
「名前なんて」
なかった。

「おい」「お前」そうとしか呼ばない人に育てられた。客は体に夢中だった。
黒い服しか纏わない妖艶なその姿に、いつしか人は黒鳥と呼ぶようになったが、それが名前だとも思っていなかった。
今まで名前を尋ねられた事なんてなかった。名乗る事もなかった。そんな資格さえないと思っていた。
人に名前を呼ばれる資格なんてないと思っていた。

なぜなら、自分は道具だったから。商品だったから。
生かして貰う為には体を差し出すしかなかった。
抵抗すれば罰が与えられ、金を持って帰れば殴られずに済んだ。
「商品だから」顔には傷を付けられず、「商品だから」抱き心地が悪くない程度に食事を与えられた。
意思も主張も認められなかった。
もとよりそんな物は持ち合わせていなかった。

「オディール」
「…」
「そう呼んでいいだろう?そう呼ばせてくれないか?」
しかし、黒鳥は首を縦に小刻みに振るばかりだった。
「体が目当てなんだろ?」
そうだと言って欲しい、黒鳥がそう願っている事など知る由も無い。
「違うよ。そんなんじゃない?どうすれば分かってくれるんだ!考えといてくれないか」
「……」



「これさ」
重い空気を断ち切るように男が明るい声を出した。
「これ、こないだ行った国に咲いてた花」
「……」

黒鳥の耳に入っていない事は分かり切っていたが、男が言葉を止める事は無かった。
男は喋り続け、黒鳥は押し黙ったまま、二人の夜は明けて行った。

「考えておいてくれ」
再度念を押されて、黒鳥は男の元を離れた。











その人に逆らわないのは恐怖からだった。
側にいると自分で決めたわけでもなく、言葉にされたわけでもない。
それでも、離れる事は許されない、そう思っていた。どこにいても監視されてると思っていた。
もとより、身も心も服従する事に慣れきり、側を離れようとも思わなかった。
その思考さえ既に取り上げられていた。

自分で決める権利など与えられた事もなく、考えておいてと言われた所でどうすればいいのか分からなかった。
タダで客を取った事に対し罰を与えられても、その事にどこか安心している自分がいた。
所詮、そういう身分なんだと思い知らされる事に絶望ではなく安心を感じた。
聞いたこともない思いやりのある言葉を聞かされるよりも「お前は私の物だ」と言われる方が不安を感じずに済んだ。
一緒に行くという選択肢はないも同然だった。









「オディール」
夜の街で呼び止められる。最初は無視する。二度目も無視する。
しかし、次第にそれもできなくなってくる。大声で呼ばれるのも嫌だったが、何故かオディール と、そう呼ばれている事を知られたくなかった。

「金払わないなら、嫌だ」
「なんで!」
「知ってる?ここで何やってるか。別に趣味で散歩してるわけじゃないの。金取らないと生きていけないの」
「だから、そういう事、しなくてもいいように俺と一緒に行こうって言ってるんじゃん」

その言葉に黒鳥の胸が疼いた。しかし、その感覚を知らない黒鳥は今朝付けられた傷が痛むのだと思い込み、
それはある人物と、その人に誓った服従を思い出させた。

「無理だって」
小さく呟かれたその言葉は重く響き、
「じゃあ、金払うから一緒にいてくれ」
と男に言わせた。

その夜から何度も繰り返される「愛してる」の言葉と優しい愛撫。
色んな国の話は、次第に黒鳥の寝物語になり、鮮やかな色彩の写真を手に取っては繰り返し話をねだった。
いつしか知らない国に「思いを馳せる」事を知り、あてもなく地球儀を回す楽しみを知った。




それを言われたのは突然だった。何も言わずに一週間夜の街に現れなかった男は 、突然黒鳥の前にやってきて言った。

「明日の朝、ここを出る。お前をあの街灯より先の世界に連れていってやるよ、 オディール」
「そんな…明日って」
黒鳥の小さな呟きを無視するかのように男は言葉を繋げる。
「今日は準備とかで忙しいからゆっくり出来ない。お前が明日来てくれないなら これでお別れだ。10時にここで待ってる。いいな、オディール」
「10時にここ」
熱に浮かされたように繰り返す。
「そう。10時にここ。オディール、一緒に行こう!」
差し出された手に今すぐ縋り付きたかった。しかし、黒鳥はたった一歩を踏み出せなかった。
首を横に振る黒鳥を男は悲しそうに見つめ再度時間と場所を繰り返し た。

「朝の10時だからな。夜じゃないぞ!」
「……」
「じゃあな、オディール。待ってるからな。来てくれるよな。信じてるから。だからさようならは言わない」

出会った当初と同じ、感情を持たない瞳に戻った黒鳥。美し過ぎる容姿にガラスの瞳。

「オディール。」
その呼び掛けにももう答える事は無かった。



人形に戻った黒鳥は客に抱かれ、家に戻り再度抱かれた。
「そう言えば、お前のあいつ、ここを出るらしいな。前から言い付けて置いた物 、手にしただろうな」
言われるがままに小さな包みを手渡す。
「これがカリビアングラスか。凄いな。よくやった」
抱かれ慣れた胸に納まり、やはりここが自分のいる場所かと感じる。
男に出会うまでは嫌だと感じる事さえ知らなかった。
しかし、それを知った今も、僅かな安堵を感じる自分に気付いていた。
愛され、大切にされる事など身の程知らずだと 、別世界の話だと、そんな想いが黒鳥の胸を占めていた。








2006.7.23UP