100年後。
近くの国の王子が噂を聞きつけ、城を訪れます。扉をあけて小さな部屋に入ると、そこには王女が眠っていました。王女はたいへん美しく、王子の目はくぎづけになりました。
王子は身をかがめてキスをしました。王子にキスで触れられると、王女は100年の眠りから覚め、王子をやさしく見つめました。
ふたりはいっしょに塔を降りました。下では王様が目をさまし、お妃様と家来たちも目をさまして、みな目を丸くして互いに顔を見合わせていました。
こうして、王子様と王女の結婚式が盛大に催されて、ふたりは死ぬまで幸せに暮らしました。
「はい。おしまい。あら?まだお目目が開いてるの?」
「ねぇ、ママ。」
「なぁに?」
「バラがいけないんだよ。」
「え?」
「バラが王女様を隠してしまったんだ。」
「あら、悪いのは魔女さんじゃないの?」
「違うよ。バラがお城を隠さなかったら、王子様はもっと早くに王女様を助けられたんだ。僕だって・・・」
「え?」
「僕だってバラに邪魔されなければ助けられたんだ。もうちょっと早く見つけていたら!」
思わず起き上がり、荒い息を繰り返した。
部屋のベッドかと思ったら、そこはオフィスだった。
「どうした?大丈夫か?」
「あぁ。起してくれればよかったのに。仕事中に寝るなんて趣味じゃない。」
「今日、病院行ってきたんだろ?疲れてんのかな、と思って。」
「大丈夫。」
「うなされてたけど?」
「平気。」
「なぁ、吾郎。」
「ん?」
「これ何?」
無造作に置かれた薔薇を取り上げて見せる。
「さぁ?さっき先生に貰った。」
「中居に?」
木村の怪訝そうな顔を、気にとめる様子もなく、吾郎は手元にあった書類に目を落とし、そして集中していった。
「中居。」
木村が小さく呟いた。
「お願いします。」
「困るんです。」
「なんとかして下さい。」
「助けて下さい。」
木村のクライアントの声が聞こえる。
それを聞き、吾郎は眉をひそめる。書類をペンで弾く音が次第に早く大きくなる。
「助けて」
「たすけて」
「た・す・け」
強く口の中を噛んだ。
鉄の味が広がる。
あの時、もっと早く言えていれば。
あの時、もっと大きく言えていれば。
あの時…
「どの時?」
「おねえ…」
「よろしくお願いいたします」
「できる限りの事はやらせて頂きます」
ドアが開き、個室から話し終わった二人が出て来て、吾郎とも目礼をかわす。
「どうした?」
「何が?」
「いや。あ、辰巳建設から連絡あったぞ。資料持ってくるって。」
「あぁ。ねぇ、木村君、僕の好きな花、なんだっけ?」
「え?」
「いや、なんでもない。」
目の前を、いつかどこかで見た場面が横切る。
小さい女の子。
白いワンピース。
紅い薔薇。
「薔薇。紅い薔薇?」
白い肌。
黒い髪。
青い唇。
「白い薔薇。血に染まった白い薔薇?」
「吾郎?」
「おねえちゃん?」
「吾郎!」
「たすけ…」
「無理に思いだすことないんだよ!辛い事は忘れていればいいんだよ!」
前後左右に大きく揺れる体を木村がきつく抱きとめる。
「なんで?あれはなんなの?君は知ってるの?どうして僕は…。」
さまよっていた吾郎の視線の焦点が合った。
「無くした記憶ってこれだったんだ。」
木村の体が一瞬遠ざかった。
「……。お茶、入れようか?忘れてた方が幸せなことだってあるよ、吾郎。」
不自然に木村の熱が温度を下げた。
吾郎の視線がゆっくり移動し、木村の上で止まる。
「僕が何かを思い出したら、君は困る事でもあるの?」
「……」
「ねぇ!何か困る事があるの?」
木村に詰め寄った漆黒の瞳は、怪訝そうに歪められ力を増し、しかし最後は悲しく揺れていた。
「ごめん。一人にして。」
「……」
「ねぇ、木村君。」
出ていこうとしない気配に言葉をかける。しかし全てを拒否した背中は振り向こうとしない。
木村はそれを茫然と見つめながら続く言葉を待った。
「僕が好きだったのは、白い薔薇かな?それとも紅い薔薇かな?」
木村の反応をガラスに映して見る瞳は瞬きさえしなかった。
「…紅い…薔薇…だったよ。」
掠れた声は木村の嘘を吾郎に伝えた。
二人の間にそれ以上会話が生まれる事は無かった。
「何か…思い出したのか?」
「中居君には言いたくない。」
「じゃあ、」
「他のドクターには、もっと言いたくない。」
「じゃあ、」
「どうするんだ」と続く言葉は口に出来なかった。
今、突き放すような事を言うのは逆効果だと医師としての経験が中居に告げていた。
「悪かったよ」
「何が?」
怒った顔は美しく、声音に刺を含ませる吾郎は薔薇のようだ。
中居はそんな事を思い、鼻で笑った。
ガラスの花瓶に活けられた一輪の薔薇。
それ越しに見ているからにしても、今の自分の思考はロマンチック過ぎた。
「悪いけど、今日は帰るね。どこも悪くないから。」
「ああ。な、一個だけ聞いていいか?」
「何?その花の名前?そんなの何でもいいじゃない!花だって名前を愛でられるよりも、姿を愛でられる方が喜ぶよ。」
「……」
「花でしょ?!花!それが百合だろうとたんぽぽだろうと今の僕には何でもいいよ!」
「…そうだな。」
中居の声はどこまでも穏やかだった。
「今日はそれ、いらないからね!」
「わかった。力になれてないのかもしれないけど、何かあったら来いよ。」
ドアに手をかけ、今にも立ち去ろうとしていた吾郎はその声に振り向くと中居を見据え、何も言わずに去っていった。
不安に覆われたその顔が気になって追い掛けようとし、しかし掛かって来た電話に引き止められた。
掛けて来たのは木村だった。
「うん。今帰った。
うん。またわからなくなってるみたいだった。
うん。一瞬だけ何かが結びついたのかもしれないな。
うん。
で、お前はあいつをどうしたいの?」
「お前はあいつはどうしたいの?」
中居の言葉がリフレインとなって、頭の中で鳴り響く。
「いつまでもお姫様を眠らせておくつもりか?
茨となって姫を守るより、王子になった方がいいんじゃないのか?
今ならあいつも楽に目覚める事ができる。それこそ、王子様のキス一つでな。」
咽び泣いてる姿を見た。
まだ小さな体ががくがくと震えていた。
憔悴しきった顔を見た。
子供らしい表情が消えていた。
声にならない声を聞いた。
ただ、唇がわなないていた。
そして、吾郎は旅立った。
苦悩のない世界に。
記憶を手放し、十字架から解き放たれた友に、もう一度背負えとは言えなかった。
今なら背負える、中居は言った。
あのころのあいつとは違う、頭では理解していた。
そもそも、教えるも教えないも、俺が決めることではなかった。
でも、俺は怖かった。
「お前が言わないなら俺が言う。」
そういう中居を押しとどめる勇気もなかった。
結局、吾郎にとって「王子様」になったのは、中居だった。
いつもの部屋で二人向き合う。
白い壁、白いカーテン、そして皺ひとつない白衣。
暖かな光とともに、穏やかな瞳と、静かな声が吾郎に降り注ぐ。
当時のことがゆっくりと、確実に伝えられる。
明晰な口ぶりが、吾郎の混乱を最小限に押しとどめる。
吾郎の頬を涙が伝わり、中居がそっと言葉を呑む。
自分が案じたことは何も起こらなかった。
なくした記憶を取り戻しても、吾郎が吾郎でなくなることはなかった。
変わらない姿で、横にいる。
数日の間は取り乱しても、トラウマを引きずり、違う人生を歩む様子はなかった。
そして、今も、こうして、笑顔を見せている。
「木村君、僕が好きな花は何だった?」
「白い薔薇だろ。」
俺の答えに満足そうに微笑むと、その顔を中居に向けた。
「中居君、今日はくれないの?」
「ん?あるよ。誕生日おめでとう、吾郎。」
中居が背後から取り出したのは、白い薔薇の花束。
「100本ある?」
「そんなにあるかよ。」
「なんだ、残念。でもさ…君って結構キザだよね。」
目を潤ませ、頬を赤く染める中居。
それを楽しそうにはやし立てる木村。
幸せな風景を目に焼きつけ、吾郎は花束に顔を埋めた。
あの時、薔薇が舞い散った。
それは、深い真紅の薔薇。
僕が好きな白薔薇は、その時、紅に彩られた。
視界に広がる薔薇の花。
今、その花びらは眩しいほどに輝く白。
穢れのない純白。
「さ、少しお仕事片付けては貰えませんか?稲垣先生。」
「そうだね。困ってるクライアントの為に、働くとしますか、木村先生。」
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