2007年7月13日ソワレ 14日ソワレ
オペレッタ劇場(ブタペスト)
Elisabeth :Vago Bernadett
A Halal : Kamaras Mate
Luigi Lucheni :Szoraz Tamas
Ferencz Jozsef:Balint Adam
Rudolf : Szabo David
ウィーン来日公演が終わったあと、マテにはまった友人がしきりに’ハンガリ〜’というのです。わたしは、それほどマテ好きじゃないしと2回くらい断ったのですが、ある明け方’やっぱりハンガリー版みたいな〜。マテのトートも2度とみれないかもしれないし’と思い、上司にお休みしたいというとOKしてくれたので行くことにしました。で、チケットどうすればいいかなとインターネットを見ると、文字から類推さえ許さないハンガリー語、いわゆるマジャル語じゃありませんか。これは、お手上げとオペレッタ劇場のBox Officeにメールしたら、メールでチケット予約さしてくれるといいます。その上、まだ日程がはっきりしなくて2候補あるといったら、2候補ともとりあえずおさえてくれて、決まったら教えてね、お金は現地払いでいいよですって。なんて親切なんでしょう。で、実際に現地にいってみると、1日はボックス、1日は右はし、1日はど真ん中といろいろな場所からみれるよう、アレンジしてくれていました。その上、お値段のお安いこと。6枚で33,100フォリント。日本円で23,000円くらい。1回あたり、4000円ちょっとですか〜。
オペレッタ劇場は、オペラやオペレットもやる劇場だそうで、こじんまりながらなかなか重厚な感じもします。しかしながら、チケットのお値段からもわかるとおり商売っ気ありません。今回、少なくない数の日本人がおしかけているというのに、公演のチラシ一枚、パンフ一冊ありません。そういうわけで、出演者の顔写真さえない寂しい状況です。
ま、Goodsがないのは寂しいけど、とりあえず’エリザベート’よねと、マテを観る以外はそんなに心の準備もなく始まります。Oh〜、オペレッタ劇場、電光掲示板に英語字幕です。商売っ気はないが、見せることにかけては、いたれりつくせりです。幕がちょっとだけあいてトートダンサーズが登場でです。ここは、ハンガリーなので、もちろんトートダンサーズとはいいませんが、とりあえずここではトートダンサーズと呼びましょう。男女混合で、金髪に濃いメーク、頬にはばってん、黒い翼のような衣装です。まもなくルキーニ登場。ちっちゃい人ですね〜。ん?何か見覚えがと思ったら、ムーディ勝山です。頭の中に’右からやってきて〜’とこだましそうになるのをあわててかき消します。セットはやすりじゃないけど、斜めのすべり台みたいなものとブロックが複雑に配置されており、エリザベートにかかわった人々がかたまって登場します。まあ、今日のルドルフはビデオでみたより若くて金髪でかわいい。ちょっと、おでこが広すぎだけど。皆さん、そろったところで、’誰も知らないエリ〜ザベー’のダンスです。ハンガリー版、心なしか、テンポが早くて、踊りも激しいようです。
そして、そして、いよいよトートじゃなかったハラール様の登場です。いわゆるハンガリー版の死ですね。一応、ゲネのビデオで心の準備はしていましたが、う〜ん、お化粧マテは、ウィーン版トートとは大きな隔たりが。きらきら金髪にさらにきらきらをつけて、アイシャドウもリップもばっちり。日本のじゃらじゃらアクセサリートートも顔負けです。しかしながら、歌いはじめるとマテです。この人、言葉はかわっても、コスチュームはかわっても、いつもマテなんだねと思いました。
人々がひっこむと男女の召使に支度してもらうパパと少女シシイ登場。かわいい〜。白いドレスのシシイは本当に10代の少女そのもの。この女の子が、本当にエリザベートの晩年まで演じきれるんでしょうか?パパはウィーン版よりちょっと重みがあってそんな遊び人には見えません。
パパが旅立った後は、ママのルドヴィカが親戚にヘレネのお見合いのことを発表する場面です。実は、ハンガリー版、シシイのママとマダムヴォルフは同一人物が演じています。大胆ですね。一応、バイエルンの公爵夫人が娼婦のマダムと同じ顔なんですもん。親戚の中に女の子と男の子がまじっており、彼らはこの後もよく働きます。単なる子役でなく、ちゃんとしたアンサンブルのメンバーなのです。女の子は後にエリザベートの娘のゾフィーを男の子はカフェのボーイを演じます。時々、ハンガリーの国民にもなります。この子たちは、与えられたことだけでなく、自分なりに考えているようで、ある女の子はチョコレートケーキの前で嬉しそうにしていたり、ある子はお菓子をとってみまり、バリエーションがありました。親戚達のパーティーを気にかけもせず、シシイは大きなブランコをぶんぶんこいでいます。片足あげて、スカートひるがえして、怖いです。案の定というか、シシイはブランコから振り落とされてしまいます。
トートダンサーズにかつがれて、シシイが横たわり、その横になぜかハラール様も横たわって歌います。’なんでおまえにだけ、例外を許すのか。夜のない日の光はなく、すべてのものはわたしのところにやってくる。わたしは、こんな状況にあきてしまっている’みたいな歌詞だったような。まあ、ハラール様は、自分の日常にちょっとあきちゃって、気まぐれみたいに美しい少女を離しちゃったってことなおでしょうか。ここの歌は、お正月のウィーン来日公演のプレコンサートで聴いて是非、実際の舞台でみたかったのでとても嬉しかったです。まあ、ひとついわせてもらうと、横たわって歌って、手をつないで起きるのは何だかな〜なんですけど。
で、シシイが人間界にもどった頃、ウィーンでは若き皇帝フランツヨーゼフが母ゾフィーと側近に囲まれて働いています。ゾフィーお母さん若いです。ルドヴィカのほうがお姉さんみたい。そして、フランツヨーゼフも若いです。ウィーン版、東宝版がこの一幕は、かなり若作りしたベテラン俳優さんが演じるのにくらべ、マジャルフランツ、こここそ実年齢と同じ役者さんがやっているようです。この役もダブルキャストで、マテの日はAdamさんという人です。この人のフランツは熱いんですよ〜。禅さんもウィーンのセカンドフランツも熱い奴だったけど、この若さにまかせた熱さにはかなわないです。初日のこの時は、まだ気づいていませんが、この若き役者さんの情熱系フランツは、マジャルの人々がどんなふうにシシイとフランツを見ていたかと深くかかわっているのです。
バートイシュルにお見合いにきたフランツは、姉のヘレネでなく、妹のシシイに恋をしてしまいます。ハンガリー版ヘレネは、けっこう自信満々にフランツの横にすわったりして自分をアピールします。シシイは、青い扇子をぶんぶんふりまわして遊んでいるとフランツに選ばれて事態が一転です。
ここから、ラブラブのフランツ&シシイの場面です。もうほほえましいくらい若い恋人のデュエットです。オペラ座の怪人の’All I ask of you'のI love youとは一言もいわないのに、大好き、大好きといっているような気持ちがあふれる歌のようです。フランツが皇帝は義務がいっぱいで自分の幸せなんてないんだとちょっとすねたようにうつむくと、シシイがかけよって大丈夫、2人で幸せになれるわといっているかのように、皇帝と未来の皇后でなく、普通の恋人同士が出会いの日々を満喫するかのようです。狭くて丸い台がぶ〜んと高くなって、こりゃこわいわと思うけど、愛し合う2人はしっかりと抱き合って支えあって、出会ったばかりなのに熱くなが〜いくちづけをかわすのでした。このキャストの組みあわせは2回みたのですけど、日を重ねて、この国ハンガリーの観光をした後は、マジャルの人々にとって、フランツとシシイはこういうイメージなんだなと実感します。マジャルの人々にシシイは本当に愛されているのです。ウィーン版が愛に恵まれず自我をさがし続けた孤高のエリザベートというイメージに対し、マジャルのシシイはいつまでも女の子。フランツに愛してほしくて、何だかすれ違っちゃうけど、心の底ではいつでもフランツを求めて愛していたというような感じがしました。他のバージョンでは、付け足しみたいな後の不幸の序章のような二人の出会いのシーンは、ハンガリー版では実はもっとも根本なシシイの部分としてえがかれている場面に思えました。だから、ハンガリーのエリザベートもフランツも若くてきれいな役者さんを持ってくるのでしょう。オリジナルだね〜、マジャル版。
ラブラブな2人の結婚式。数少ない理解できるマジャル語、’イーゲン、イーゲン’と共にハラール様の笑い声が響きます。結婚は失敗だ〜が終わると、いよいよでございますよ。ハラール様の最後のダンス。ハンガリー版、かっこいいです〜。時がそこで止まったかのようにエリザベートとハラール様以外は凍りついています。トートダンサーズのお盆からワイングラスをとって、固まったフランツに持たせ、その花嫁を奪う喜びのように乾杯します。トートダンサーズは、王様の椅子のようなフォーメーションを組んで、ハラール様は君臨する王者のように腰掛ます。オリジナルだね〜。で、だんだん曲は高まり、曲が最高潮になると、これは見ている我々にはウィーン版のマテと根本的には同じイメージがくりひろげられます。曲が静かなときのハンガリー版はかっこよくていいんですけど、やっぱりマテには、ウィーンくらい広いセットが必要なようです。
しかしながら、客席の反応はすごいです。ウィーンでも、マテの’最後のダンス’のあとは、ヒューヒューイエ〜イという大騒ぎでしたが、こちらはその倍くらいの熱狂。あと、拍手がすごいもりあがったかなと思うと波のように、しゃん、しゃん、しゃん、しゃんしゃんしゃんみたいなリズムにかわり、えっアンコールあり?バレエみたいにまた出てきたりするわけ?とか思っていたら、拍手はそういうもんらしく、この後も盛り上がる歌の場合は、このような拍手を繰り返すのがマジャル流のようです。
’最後のダンス’が終わると、現実にもどったシシイとフランツをまわりの人々がみていて、じろじろ見られるのは嫌だわとフランツに甘えるシシイのため、フランツがシャッと赤いカーテンを閉め、見ていた野次馬たちは、な〜んだいいとこなのにみたいに去っていきます。このあと、フランツはカーテンを出て行くのです。この2人は、初夜をちゃんとお務めしたんだろうか?とちょっと疑問なくらい短い滞在でした。
この後は、おなじみ、ゾフィーお母様の嫁教育の初日です。’フランツがわたしは身体が弱いからゆっくりしていていいよといってくれました’というと、’あたなの身体が弱い??’みたいにはじまり、若くて、奔放に育ってきたバイエルンのお嬢さんシシイにはゾフィーお母さんの助言なと意地悪にしか思えないのでした。フランツに助けを求めても、お妃様になってもらわなくちゃいけない人なのであまり甘やかしてばかりもいられません。ついにシシイ、きれます。’わたしだけに’のはじまりです。若いです。ウィーン版でマヤさんが、V字の谷に仁王立ちになって歌い上げた日には、絶対に16歳の少女にはみえませんでした。が、このマジャルシシイ、若いです。若さにあふれてます。昨日まで、バイエルンでおてんばにパパみたいになりたいと思いながら暮らしてきて、恋した人が皇帝というだけだったというだけで、わたしの自由は奪えやしないわみたいに、まだ世間の怖さも人生の苦しみも知らない若さにまかせた’わたしだけに’です。だから、シシイ動きます。自分の居室をぬけて、複雑にブロックになったセットを駆け抜けるように移動しながら歌います。結婚したときのシシイは16歳、まさにこんな感じじゃなかったのかなと思えるフレッシュなシシイでした。
次は、結婚1年目〜のシーンです。ハンガリー版、ここは、金色の写真の額縁の中でシシイの生活が展開します。フランツは仕事に忙しく、その枠の外で側近たちといつもお仕事です。シシイがかまってというようにしても、今忙しいからというようになだめますが、カメラマンがカメラを向けるとシシイを抱いて社交スマイルを浮かべます。赤ちゃんが生まれたけれど、ゾフィーに連れて行かれてしまいます。シシイが返してというのをからかうように、赤ちゃんが召使から召使にリレーされて遠ざけられてしまいます。そして、また赤ちゃんが生まれて赤ちゃんを取り上げられる前にまた、社交的な家族写真をカメラマンが撮ります。フランツは、シシイの美しさがハンガリーの制圧に役立つのではと思い、シシイについていくようにといいますが、シシイは子供を返してといって、無理に長女のゾフィーをともなってハンガリーに同行します。通常、ここのゾフィーはまだ幼児で死んだとき、小さな棺に死体がはいってでてくるのですけど、ハンガリーゾフィーちゃんはちょっと大きいです。10歳くらいにはみえます。ちゃんとお母さんやお父さんと並んで民衆のところにも出ていますが、病気で死んでしまいます。
次ですよ、これはウィーン版でもツボだったところ。’闇が広がる’のゆっくりバージョンです。ハンガリーのハラール様は、突然影のように現れます。それまで、気配を感じさせないのが死の象徴という感じがして大変よいです。が、マテの場合は、出てきたとたんに実体をかなり感じてしまい、現実的な感じがします。まあ、それはそれとしても、う〜ん、このシーンの’闇が広がる’の最後に余韻のようにのばすところとか、そうだわよ、これ、これ、マテの声、さらさらパウダーが肌にまとわりつくようなあの感触。全体的にウィーン版のほうがしっくりくるマテですけど、ここばかりはウィーン版に劣らずぐっときました。
お次は、カフェのシーンです。実は、このくらいから、ハンガリー版本領発揮です。群舞アンサンブル関係のシーンは、ハンガリー、かなりオリジナルテイストを発揮して、ダンス満載、独自の解釈満載。こうして、人々はハンガリー版にはまっていくのだな〜と後で考えると思うのですけど、何度みてもまたみたいカフェのシーンです。カフェでは、人々がなんだかんだと皇室の噂話をしています。先ほど、親戚の集まりにいた少年がカフェの給仕として働いています。噂話に興じる人々の前をハンガリーの若者たちが戦争にいって、時がすぎると傷ついてもどってきます。この頃、ハンガリーはハプスブルクの支配から独立しようと運動をしていたのでしょう。皇室には跡継ぎルドルフが生まれたニュースがはいります。人々は、小さなコーヒーカップをふりまわして踊り最後をきめます。う〜ん、好きだね、この感じ。ウィーン版のゴーカートの妙なうけねらいより、ウィーンのカフェでいながらハンガリーの情勢も思い出されるご当地ならではの解釈、そしてそれを暗くさせないダンス、なんだかのりがラテンじゃありませんか?マジャルの人々。
せっかく男の子が生まれたのに、またとりあげられたシシイの怒りはピークです。フランツをしめだして、決意表明のようにお手紙を書きます。扉の外では、フランツが’エリ〜ザベ〜、開けてく〜れ〜’とまるで、どんどんとたたかんばかりの勢いで、叫ぶように歌っています。これもなかなか斬新なフランツ像です。日本でもウィーンでも、フランツは仕事に疲れていて、誰かに慰めてほしくて、妻のもとにやってきて冷たくされたみたいな感じでしたけど、こちらマジャルのフランツは、ほんとに恋人のエリザベートに会いたくて、会いたくて、なんで会ってくれないんだよぉ〜、君をないがしろにしてるわけでなくて、仕事が忙しいんだよ〜、開けてくれぇぇぇぇ〜’という感じなのです。熱いね〜、パッショネイトだね〜、Adamフランツ、いいですよ。がんばれ〜。で、強気に出てきたエリザベートがお手紙を渡すとハラール様が登場します。ここも、影のように突然でてきます。ハラール様の愛に背を向けて、エリザベートはほっといてというように主張します。ここも、なんかウィーン版とかが自我にめざめたようなエリザベートに比べ、フランツと喧嘩しただけで、フランツが自分のいうことを聞いてくれるのをわかっている恋人を待つエリザベートのように思えたのでした。
世の中にはミルクがたりません。人々はミルクがないので怒っています。ルキーニが牛乳風呂に入っている人がいるからね〜と人々をあおります。こちらハンガリー版は、庶民のいろいろな服装ですけど、怒るとこわいよ。ウィーン版のグレー一色の怒った外人たちも怖かったけど、こちらマジャルのダンス満載の怒りにみちたミルクもカフェに劣らず大迫力です。いやあ、期待してたけどね、よいよ、マジャルの怒り。あ、ここは、ウィーンの人でしたっけ?
そして、このミルクのお風呂にはいっているエリザベートはその美しさに磨きをかける日々です。召使たちは、エリザベートの美しさGoodsをかかえて忙しそうに働いています。そこへ、エリザベートの手紙を握りしめたフランツがやってきます。そして、エリザベートの主張を聞き入れるから帰ってきてくれという歌ですね。ここもウィーンや日本が妻をとりもどしてたくて、信念をまげたのだというのがなんか男の面子みたいに思えていたのですけど、このフランツ、ほ〜んと、エリザベートが帰ってきてくるならなんでもするよ、みたいなあの出会いの頃の恋するフランツとかわってないのですね。エリザベートの愛をとりもどせたいひたむきさにあふれています。その告白を聞いたエリザベートは思いっきりおしゃれをして、あの有名な見返り美人の白いドレスで、ぶ〜んせりあがるせまい台にのって登場します。若いエリザベートは美しいです。マヤさんも美しかったですけどね。自信にあふれる大人の女性でしたけど、このエリザベートはフランツのために着飾ったのではないかと思えるような恋する若き女性の輝きがあります。ぶ〜んとあがってきた高いところにいるエリザベートと同じ高さの左のブロックには、ハラール様が、右のブロックにはフランツがつかまって、一人の女性をめぐって競い合うかのように歌います。お〜、これはどの人の位置も見ていてこわいです。怖さと迫力をみせつけて一幕終わります。
二幕は、おなじみキッチュで始まります。わたし、正直、ウィーン版でさえ、’キッチュ’ってあんまし好きじゃないんですよ。特に日本の東宝版は大嫌いなくらい。が、ハンガリー版、はじめてキッチュが気に入りました。ルキーニがエリザベートGoodsを物売りの箱にいれて現れるとハンガリーの衣装をきたアンサンブルの人々が、みせて、みせてと駆け寄って、次々と買っていきます。最後は、物売り用の箱がシシイの画像入りギターになってみんなでとりあいます。ハンガリーの人々のダンスもはいります。初めて、’キッチュ’がみせどころになったなと感じたバージョンでした。
キッチュが終わると先ほどのカフェで働いていた少年がまたやってきて、ミサが終わったことを告げます。オーストリアハンガリーの戴冠式のミサです。こここそ、ご当地エリザベートならでは、エーヤン、エーヤン、エージベーのところです。てっきり、客席で白いハンカチでも振って盛り上がるのかなと思っていたら、そんなパフォーマンスは一切なく、人々、ハンガリーの衣装に身をつつみ、エリザベートとフランツをたたえて歌い、踊ります。エーヤンのところの男性アンサンブルのダンスはなかなかでした。これは、カフェ、ミルクと並んで3大好きなアンサンブルの見所のひとつでした。あと、ひとつ、もっと素敵なシーンがあるのですけどね。
わたしとしては、ここで’私が踊る時’がほしいところですが、今回のハンガリー版ではなしです。それゆえに、後のエリザベートの孤独の深まりや人生のむなしさと対比するものがなくなったせいか、ウィーン版とは大きく印象の違った要因のひとつではないかと思われます。
ウィーンの宮殿では、ルドルフが一人でお留守番です。ちびルドは、大人ルドの俳優さんと髪の色をそろえているようで、マテ組のちびルドは金髪でした。多分、これは10歳の設定。あとで辞書を調べるとキャスト表にそのように書いてあったと思うので。そういえば、ハンガリー版は、’ママに会わせて’とゾフィーにお願いするシーンはありませんでした。ちびっ子軍服もきてなくて、白いシャツでした。最後にベッドにぼ〜んと身体をなげだす仕草がママに会えない寂しさを象徴しているようでちょっときゅんとします。
次は、精神病院のシーンでしたっけ?ちょっと、大人になったエリザベートが精神病院を慰問しています。ここで、わたしのむなしさは、正気を失いでもしないと救われないみたいなシーンだと思うのですけど、わりとうす〜いのです。これは、ひとえに、ウィーン版マヤさんが’私が踊る時’の大勝利宣言を経て尚、みたされないどうしようもない一人の女性としての深い孤独をみせつけたくれたことがあまりに印象深いせいかもしれません。
すっかりエリザベートの勢いにおされ気味のゾフィーは、どうにかこの事態を挽回しようと側近たちを集めます。ここは、皆さんビリヤードのキューをもってビリヤード台のまわりで歌います。そして、話がまとまるとマダムヴォルフのシーンです。ウィーン版や日本版では、マダムヴォルフの館に紳士は出てこないのですけど、ハンガリー版は登場して日々の姿を映し出します。ルキーニが、スティービーワンダー風の仕草でピアノを弾きます。側近の一人がやってきて、一人の娼婦を選びだします。この先は、いいんでしょうか、ハンガリー。
逆立ちした娼婦が足を180度開き、他の娼婦がお掃除用のブラシでお掃除するのです。そして、そのまま、ぐるんとまた180度くらい回転して念入りに。最後は、箱につめられて運ばれていきます。
次に登場したエリザベートは突然老けています。髪型かえたんですね。吊り輪のエクササイズをしようとしますが、具合が悪く倒れてしまいます。お医者さんに扮したハラール様がやってきて、フランツの裏切りをつげます。最初は死んだほうがいいとか思っていたエリザベートですが、それなら自由に生きてやるわとハラールの誘いを一蹴します。シシイ、迫力です。ものすごい怒っています。だって、ハンガリーのシシイは本当にフランツが好きだったし、信じていたから。許せません。ほんとうに許せません。エリザベートの歌の中で、もしかして、ここが一番迫力だったかも。そういうわけですので、この後の拍手もまたまた、大盛り上がり、しゃん、しゃん、しゃんしゃんしゃんの大喝采拍手でした。
バルコニーでくつろぐ老人になったゾフィーのもとにフランツが怒ってやってきます。エリザベートが出ていったことをゾフィーのせいだとなじります。でも、ゾフィーは帝国のためにやったこと。私利私欲のためではありません。ここは、今までみたどの女優さんも、今までの意地悪なおばあさんのイメージを忘れさせるようなしみじみした’ベラリア’を聞かせてくれます。ハンガリーゾフィー、とても若い方が演じていたけれど、その若さに負けることなく、帝国のため捧げてきた人生を、息子に理解してもらえなかった寂しさを歌い上げます。ハラールとトートダンサーズが死の旅路にむかえにやってきます。ここ、死のキスをしたのかどうか微妙でした。
エリザベートは旅に出ます。フランツの裏切りが許せなくて、どこまでもどこまでも。フランツは、帰ってきてほしいので、一生懸命お手紙を書きます。それをエリザベートは読んでは、ぐしゃっぽいっと捨てます。まだ怒っています。月日は過ぎていきます。エリザベートも年老いていくのを感じます。ウィーン版エリザベートは、ルキーニに白髪のある姿を鏡でつきつけられてショックなところなのですけど、ハンガリー版エリザベートは気丈にも、自分で、えいっと白髪をぬきます。この辺も恐れを知らないエリザベートという感じです。老けてもどこまでも、わたしはわたしなエリザベートなのです。
そしてお待ちかね、’闇が広がる’大人ルド編です。ハンガリー版のルドはちびルドをそのまま大きくしたように白いシャツのままですね。ベッドのところにハラール様が現れて、ルドルフをあやつるかのように歌います。ウィーン版では、がくがくぶんぶん振り回されていましが、こちらハンガリー版は、腹筋思いっきり使わされるように斜めの姿勢で上になったり下になったり、トートダンサーズが出てきて持ち上げあられて、ぐるんとまわされて逆さになって歌ったり。マテ組の大人ルドは、日本版のように少年みたいな若い俳優さんが演じています。これは、なかなかきゅんときます。本当は34歳くらいのはずなので、実際は若すぎるのでしょうけど。皇帝ルドルフは、立ち上がる〜(ハンガリー語ではしりませんが)のところで、トートダンサーズに軍服を着せられ、剣を渡されます。ほお、これはよいですよ。
次が、もうひとつのアンサンブル素敵編のひとつ。ハンガリーの独立運動の地下組織へルドルフがハラールに伴われてたずねる場面。ハンガリーの人々は黒い服をきて、帝国からの独立を画策しています。皇帝の息子がどうして我々のところにくるのだ、信じていいのかと半信半疑ながらもルドルフを巻き込んでいきます。ルドルフは人々に追い込まれ、’どうしても必要ならば、そうするがいい’と、サインします。その書類をトートダンサーズが密偵のいるところにぼろんと落として、フランツの目に留まることになったのでした。ここは、ウィーン版にはないところです。ハンガリーならではでしょうね。日本版にもちょこっとでてきて、わりと好きなところなのですけど、日本版がハンガリー国王になるルドルフの野望と重なっているのに対し、こちらハンガリー版はあくまでもルドルフは時代の流れの痛みの中にまきこまれてそこにいるという感じがしました。
その頃、エリザベートは一段とお年を召してギリシャのコルフ島にいます。ここも、精神病院のシーンと同様、なんかうすいのですね。ハンガリー版、シシイの孤独とかそういう部分にはあんまり関心がないんでしょうか?
ウィーンでは、ドイツ民族の人々のユダヤ人への差別が始まっています。ユダヤ教の親子が登場して、人々に意地悪されます。ここでは、ウィーン版のようにドイツ風の風貌にはせず、ドイツの旗をもった人々が出てくるのみです。ここもあんまり好きなシーンではありません。ハンガリー人がやっても説得力がないのかな。まあ、これは、ルドルフが憂う時代の流れということでしょうか。ルドルフが一人で登場して、’ぼくはママの鏡だから’を歌います。ハンガリー版、ずっと一人ぼっちかなと思ったら、突然エリザベートも登場します。お母さん冷たいです。’何のさわぎなの?’といって、スカートにすがって、お祈りするみたいにお願いするルドルフの願いをふっという感じで拒絶します。ウィーンみたいに会ってもくれないママもどうかと思いますけど、こんなにお願いしている息子を冷たくあしらうお母さん、つめたすぎます。
すべてに絶望したルドルフの腰には銃がささっています。マイヤリングのワルツにのって、マリアベッツェラと性行為を思わせるダンスをします。トートダンサーズにめちゃくちゃにされ、白いシャツをぬがされ、最後にハラールにくちづけをされルドルフは息をひきとります。ハンガリー版残酷です。ルドルフは、ななめの台から、ごろんごろん落とされます。下までたどりつくと、その身体に布がかけられお葬式シーンです。大切なものを失って絶望するシシイに、ゾフィーが皇后のつとめは帝国のためにつくすもの〜と冷え冷えと歌うのが聞こえます。ハラールにわたしを連れて行ってとすがるエリザベートですが、ハラールはそんな女は嫌だと拒絶されてしまいます。
さらに旅をつづけるエリザベートを追って、フランツがコートダジュールにやってきます。ふたりとも、一段と老けメークにしてます。こりゃ、やりすぎじゃないかなと思うくらいのフランツ、おじいさんメークです。ウィーンや日本のようにロングコートは着ておらず、杖はついています。ここでの、フランツ&エリザベートは、歌に反して結構仲良しにみえます。最初だって、ふたりで椅子に腰掛けているし、海岸にみたてた斜めの台をのぼる時、エリザベートが支えるようにフランツの手をとります。この2人をみていると、本当は、2人とも心の底ではお互いを求めているのに、ちょっとした食い違いから大きな溝ができて取り返しがつかなくなって、なんでなんろうね〜と寄り添えなかったことを嘆いているように思えました。ハンガリー、やはりフランツとエリザベートは愛しあっているというのが基本にあるような気がします。
寂しくむなしいシシイとの再会のあと、エリザートを取り巻いた人々の悲劇が次々と登場します。混乱するフランツを尻目ににハラールがルキーニをそそのかし、ルキーニはエリザベートの命を奪いに向かいます。ルキーニに刺されたエリザベートをトートダンサーズが運んで黒いドレスをぬがせ白いドレスにします。そして、やっとエリザベートはハラールのもとに。なんと、ここで、さっさとエリザベートとハラールはくちづけをかわすのです。ウィーンが最後の最後まで歌いきってキスしたのに対し、こちらはキスしたあとも歌います。歌うだけ歌って、塔の中で去っていきます。最後にハラールが白いドレスをもって表れ、勝ち誇ったように塔に斜めになってそれをかかげます。
カーテンコールのエリザベートは、あの白い見返り美人の正装ではありません。ハンガリーの正装なのです。かわいいです。あの白いドレスは大人のエリザベートにはお似合いだけど、この若々しいシシイには赤と白にベールをかぶったハンガリーの衣装が似つかわしいです。このバージョンをみて、いかにマジャルの人々がシシイを愛していたかがわかるような気がしました。また、どうしてあんなにもシシイがハンガリーの地を愛したのか。マジャルの人々は熱いのです。ラテンのような情熱があります。表現することをおそれない大胆さがあります。この地をシシイが愛し、マテが生まれたことを体感したような舞台でした。ただ、この舞台のハラール様は、本当に死のイメージなので、あんまり元気のありあまるマテにはちょっと物足りないかなと思えました。ウィーンの人が彼をみて、ウィーンに連れて帰りたいと思ったがわかるような気がします。マテには、ウィーンのほうがお似合いだけど、こんな遠くまで導いてくれたことに感謝します。そして、そこでこんな感動を与えてくれたことも。エリザベートだからはずれはなかろうくらいに思っていたけど、期待以上、意外度いっぱいのサプライズエリザベートでした。楽しかったです。
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