2007年5月12日
新宿コマ劇場(東京)
エリザベート : Maya Hakvoort トート : Mate Kamaras
ルドルフ:Lukus Perman ルケーニ:Bruno Grassini
フランツヨーゼフ: Markus Pol ゾフィー :Chirista Wettstein
新宿コマ周辺っていうのは、ほ〜んと気持ちが萎える雰囲気醸し出しています。なんだかね〜とお引越しして遠くなって、エリザベート熱も高まらないまま本日をむかえました。大阪のチケットは高すぎたので行きませんでしたし。
が、ですね。。。。すばらしかったです。う〜ん、日本でまたあのエリザベートが観れるなんて、2004年の年末には全く想像もしませんでした。コンサートバージョンといえども、あの日の感動がまた3年たった今、よみがえってきたのでした。
コンサートバージョンはレミゼで経験しており、出演者が衣装つけて、演技はするけど動かないでスタンドマイクで歌うのでしょうと思っていたのです。ところが、このエリザベートバージョン、ちゃんと踊るし、動くんですね〜。オーケストラが舞台の真ん中から中央にいて、そのあまった少しのスペースで、ウィーンキャストの皆様、真摯に動いて、演技して歌って、踊ってくださるのですよ。お金払っているとはいえども、本当に 来てくれてありがとう、ここで上演してくれてありがとうという気持ちでいっぱいになりました。そして、何が嬉しいって、字幕です。ウィーンには当然ないし、DVDにも字幕ないし、ずっと日本版からの推測でみていたものが、やっと字幕付きで、意味がわかってみれたのです。日本はすごいね。こんなことが叶うなんて。日本にいながら、ウィーンキャストで、字幕付きでエリザベートをみれちゃうんですもん。
今回、わたしの知るかぎりでは、マヤさん、マテ、シシィのパパ以外は、プリンシパル級の役者さんたちはお初でした。結局Kayaさんはこなかったんですね。残念です。わたしは、どうしてもKayaさんの強烈な印象がありますので、Brunoは毒が弱かったです。Kayaさんのルケーニは、嫌味ないほど、嫌な奴でしたけど、Brunoはあんまり嫌な奴じゃないんです。単なる庶民の目でみているという感じ。イタリア語はまじるけど、あんまり異郷の人という感じもなかったし。だから、エリザベートの人生とトートの愛の物語になって、それを冷ややかに歴史を超えてみつめているような立体感がうすかったように思います。せっかく日本まで来たけど、ルケーニ、悪くはないけど、その持ち味が十分に出てないように思え、残念でした。
フランツヨーゼフは、わたしがみた2人のフランツより、少し若いのかな?ゾフィーは、ウィーンではえらく若い人と、オリジナルのおばあさんと2種類みましたが、今回の人はその中間。こわさでいうと、寿ひずるさんが一番怖いです。わたしがみた2人のフランツに比べ今回のPolさんは、若き日の皇帝のイメージが強く、まじめな青年という感じでした。わたしがウィーンでみた人はDVDの人なんですけど、この人はどっちかというと中年以降のほうがしっくりくるし、なんだか貧相でお母さんのいうことに逆らえない情けない夫感が強かったけど、Polさんはまじめすぎてどっちつかずという感じでした。期待した夜のボートは、ゆらゆら揺れる岸辺がないのが残念でした。CD聞いていてすごい印象的だった’SICH NAH ZU SEIN IM DUNKELN-GENUGT DAS NICHT ALS ZIEL?というのは何ていっているのかなと思っていたら、’暗闇の中で側にいる、それだけでは、満足できないのか?’だったそうです。CDは、ここ感情こめてすがるみたいに歌っており、Polさんはどうかしらと思っていたら、さらっとしてました。若いエリザベートが恋に落ちるのに、なんであんなおじさんみたいな人がいいのかなとウィーンでみたときは思ったけど、Polさんは、マヤさんとつりあっており、違和感なくよかったです。
そして、まってたよ、Lukus君。ウィーンで3日ともふられちゃいましたから。う〜ん、やっぱり3年前に観たかったかな。ちょっと大人になっちゃたね。実際ルドルフは28歳から32歳くらいまでなので、これでも十分なんだけど、浦井君並みのガラスの皇太子を求めたせいなんですけどね。意外なことに’闇が広がる’より、’ぼくはママの鏡だから’がよかったです。あと、お父さんのフランツヨーゼフと政治のことで言い争うところとか。この人、演技したほうがよいのでしょうね。今回字幕がついたおかげで、ミュージカルエリザベートでのルドルフの存在がすごくよく理解できました。と、いうのもルドルフは内面的にエリザベートから受け継いだものが多く、それゆえに、父と対立し、敏感に世の中の変動に気づき、自分の無力さに傷つき、身動きのとれなさに母と同じ境遇を感じるわけなのですけど、東宝版ではここがいまひとつ、ぎくしゃくしていたように思えます。エリザベートとルドルフの内面の共通性を本日初めて実感できました。今まで、なんで気づかなかったんだろうと思うのですけど、ルドルフが’ぼくを見捨てるんだね’というのは、エリザベートが初夜の翌日フランツに言うせりふと同じだったんですね。かつて、自分が信じた人に救ってもらえないと思い絶望した痛みを持つのに、それを一番愛する息子に同じことをしてしまう。ここまで、ルドルフとエリザベートは鏡のように同じ思いをたどるわけです。う〜ん、オリジナル版、字幕はいいね。あと、エリザベートがどうしてフランツにルドルフを助けることでフランツに申し入れしなかったのかも東宝版謎だったのですけど、エリザベートは、ゾフィーに勝利して、フランツに浮気されて、もう絶対に夫に頼みごともしないし、夫の言うことも聞かないし、自分の意志を通すと決めてしまっていたので、息子の申し出さえ拒否したわけですね。それほど、フランツへの不信は深かったわけだ。これも、今回’ぼくはママの鏡だから’の歌詞の字幕のおかげで納得でございます。かえすがえすも、ありがとう字幕。Lukus関係でちょっと気になったのは、彼、プリンシパルなんですけど、人手不足のせいか、あっちこっちにアンサンブルで登場してました。嬉しいっちゃうれしいけど、Lukusの安売りはいかんよと思ってしまいました。一番素敵だったのは、カフェで、メタルフレームのめがねをかけていた時。ルドルフよりかっこよかったよ。
マヤさんとマテについては、もう語るまでもありません。お正月に、こんなところで、あんなに本気を出して熱唱してくださったお二方ですので、今回もあんなにせまいところで、セットもないのに、ウィーンの熱気をそのままつれてきてくれたような情熱を感じました。マヤさん、字幕のおかげもありますが、エリザベートの特に後半勝利をした後以降の孤独といらだち、悲哀がひしひし伝わりました。力強い声の中に、なんて物悲しい響き。ウィーンでは、’私だけに’や’私が踊る時’など、どっちかというと力強い系に心ひかれましたが、本日は、いつもはあんまり好きじゃない精神病院での歌や、コルフ島のときの歌がよかったです。と、いうか、この辺の深さを今まではよく理解してなかったのかも。これらは、無駄な場面じゃなかったんですね。ウィーン版、フルバージョンでセットありでまた観たくなりました。マテに関しては、このコンサートバージョンは、どう考えても手狭でございます。ハンガリーの暴れん坊トートが、ここで暴れていいよといわれてもね。特に最後のダンスは、ヤスリもはしごもなくて。まあ、その分、闇がひろがるの最初のスローバージョンはよかったです。ここ、好きなんですよ。日本ではなぜか気がぬけた歌い方する人が多いのですけど、オリジナル版は、このメロディーにねっとりとのせて、トートの気持ちがじわじわくるんですね。で、マテの声と最後に後ひく感じが、なんともツボなのです。トートなら、このようであってほしい1曲でした。
コンサートバージョンと聞いて、これは残念だわと思ったのが、ミルク、ミルクでした。が、なんと、ちゃんと踊りつきでありました。これは、ウィーン版の名場面だと思います。グレー一色の衣装で、男女がミルクの缶をしゃんしゃんいわして怒りいっぱいに歌い、踊る、外人が怒りながら迫ってきたらこわいわ〜と思ったことは忘れられません。よかった、あのウィーン版です。これがあるなら、コンサートバージョンでも許すと思えたシーンでした。
まあ、このように、日本にいて初めて発見できたことが多く、より深くエリザベートの内容そのものを理解できたことが何より収穫であったと思います。今回、思ったほどにチケットの売れ行きもよくなったようで、日本への再来日は厳しいかなと思います。だけど、また来てほしいな。どこか、あのウィーンの稼動式舞台をもってこれる劇場はないものでしょうか。ウィーンのスタッフの皆様、今回は本当に来てくださってありがとう。これにこりずにまた来てください。すばらしかったです。
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