2005年10月2日
本多劇場(東京) マチネ
ヴァホフ:加藤健一
多分、学生の頃、’ぴあ’か何かでこのお芝居のことを読んで、観たいなと思っていた。今回は、25周年記念、11回目の再演だそうだ。観たいと思ったのは、初演よりはあとだったと思うけど、ここにくるまで随分長かった。
この物語の登場人物は、8人だが、舞台上には一人だけ。セットは、証言台がひとつ。音楽や効果音は、最初と最後だけ。まっくらな会場が少しづつ薄暗いくらいまで明るくなって一人の男が直立して立っている。
男は、平静だ。裁かれようとしている被告でありながら、こちらに向かって、挑むかのような冷静さだ。中肉中背のこの男の内部には、会場全体をおおいつくすほどの重さをもった壮絶な体験が秘められている。今、この体験を裁かれるため男は法廷に立っている。
男の名は、アンドレイヴァホフ大尉。ポーランドの修道院を死守するため戦った戦いで破れ、修道院の地下室に仲間6人と、水も食料も与えられず、裸にされて60日目に救出されるまで閉じ込められていた。生存者は、彼とルービン少佐のみ。ルービンは今、正気を失い病院という別の牢に閉じこめられている。
ヴァホフは、陪審員に話すように観客に語りかけてくる。彼の証言のみがそこにあり、彼の語る言葉から、観客は見えてない場面を想像し、起こったことを反芻し、審判を下すことを求められる。ヴァホフの語りは、平静だが、時に高まり、また冷静さをとりもどし、そして高まり、60日間の壮絶な出来事を投げかけてくる。彼が証言を余儀なくされているのなら、証言を聞く我々も耳をかすことを余儀なくされている。彼の証言、いや告白に耳を閉ざすことは許されない。まさにそれは、極限の中で、人間の魂を試されたことの告白である。生存していくこと、尊厳を保つこと、正気を保つこと、逃避すること、死を選ぶこと、そのどれもが同じくらいの重みをもって迫ってきて、何が一番大切なことなのか、わたしには選ぶことなどできない。ヴァホフは、観客にいや陪審員たちに審判を下すことを求めるが、わたしには、何によって彼が裁かれなければいけないのかさえわからなくなっている。
裸で地下室にほおりだされた7人の男たちは、敵が鍵をかけたままその地を去っていく音を耳にする。水も食料も衣服もない5月の地下牢で、男たちはトレチャコフ大佐の判断を信じて待っている。11日目、トレチャコフは生存するため、くじ引きで生贄となる者を選ぶことを提案する。それは故意なのか運命だったのか、トレチャコフが選ばれ、男たちはトレチャコフの息をとめる。トレチャコフは最後まで妻への愛を語り、上官として尊厳をもってその身を投げ出した。罪悪感や絶望感をふりはらうかのようにルービンがトレチャコフの体に歯をたててその身を食らいはじめ、残った者の良心の重みを一身に背負う立場となった。ルービンの先導で他の5人もトレチャコフの肉を食べはじめた。ヴァホフは、告白する。大佐を殺すときの冷静さ、自分がしたことのおぞましさに押しつぶされそうになりながらも、食べたことにより生気がまた体にみなぎりはじめる実感。バニシェフスキーは、その肉を食したことの嫌悪感で孤立していく。次第にトレチャコフの肉はつき、次の犠牲者を選ぶときがやってくる。バニシェフスキーはそれに加わろうとせず、彼をはずした5人でくじびきがおこなわれ、ライセンコが選ばれる。ライセンコは、その不等さをののしり激しく命乞いをするが、仲間はかれの息の根をとめる。その時、ヴァホフは別の方向から血が流れるのを感じ、バニシェフスキーが自分の歯で手首を切りいのちをたったことを知る。もし、もう1時間早くなくなっていたら、ライセンコは死なずにすんだのだろうか?ヴァホフは、バニシェフスキーの幼馴染で、彼の死より、ライセンコの死より、バニシェフスキーが何もいわずに逝ってしまったことを憎む。この絶望的なとき、ルービンは何ひとつ無駄にすまいと仲間の皮膚をさき、その血をすくって生き残ったものに飲ませる。ルービンは、仲間の体を裂き、平等に肉をわけあたえ、残った頭をいとおしむように一列に並べていく。やがて、二つの肉体も尽きていくときが近づく。ブロックは祈りはじめる。何時間も祈り、そして自分の身を次に投げ出そうと横たわる。それは、尊い自己犠牲なのか、この世界からの逃避なのか、誰も考える力もなく、その体に手をかけようとはしない。翌朝、何の手も下すことなく、ブロックは死の眠りについていた。残りが3人になり、ヴァホフは、ルビアンコがひどく病んでいることに気づく。ルビアンコは、強靭な体力の持ち主だった。誰よりもたくましく、女性にもてて、力強い男だった。その男が激しく咳き込み、寒さに震え、泣きながら体をかきむしり、飢えを感じては食べ、食べては吐き、苦悶の叫びをあげつづける。ルービンとヴァホフは彼を介護しようとするがルビアンコの苦悶は激しさを増していくばかりだ。やがて、ヴァホフはその苦悶の声を姿を自らの意識から遠ざける術をみつける。ルビアンコはヴァホフの側にいながら、もうヴァホフの中でルビアンコは遠い存在だった。一方、ルービンは、その苦悶の姿を一身に自分がひきうけ、その苦悶を受け止め、押しつぶされそうになりながら、その魂を疲労困憊させていくのであった。そして、ルービンは、その苦悶からルビアンコを救おうとでもするよに彼の首に手をかけ骨を砕き息をとめる。それは、ルービンがその苦悶の叫びから逃れるためのものではなく、ルビアンコへの慈悲からの行為であったこととヴァホフは語る。それから、ルービンの様子がおかしくなりはじめる。ヴァホフは、今度こそ自分が主導権をとって、ルービンを支えなければいけないことを悟る。ルビアンコの死体を解体し、ルービンに食べさせる。その先のことは考えられなかった。60日目に足音を聞いたとき、激しい絶望と希望とが彼に襲い掛かる。これがあと1日、10日のびていたら、そんなことはヴァホフにはわからない。彼らを発見した若いスクリャビン中尉は、中の様子を確かめいったん上へ引き上げ、激しく嘔吐する音がヴァホフに聞こえてくる。もどったスクリャビン中尉は外套を投げ与え、ふたりを外に助け出すと修道院を爆破してその場を去った。
2時間30分、休憩なしに、一人の男が語り続けた物語である。何のために?審判を受けるために。ほとんど淡々と語られた壮絶さにめまいを覚えそうになりながら、問いかけられたわたしは、何ひとつ答えをみつけることはできない。その地下室に横たわっているもの、充満している雑多な人間の本能と営みのどれもが、あまりに真実であり、現実であり、非難しようが否定しようが、消すことのできない事象なのだ。生存をかけた状況で、理性にしたがって生きることが尊いのか、本能に身をまかせ、ひたすら生存することをさぐることが正しいのか、何もかもわからない。生きるために、仲間を殺し、その人肉を食し生きながらえたこと、これは罪なのだろうか?仲間を食べたこと、食べなければいけないことを放棄し自らの命をたったこと、それは罪なのだろうか?仲間の苦悶に耳をふさぎ、自らの理性を保とうとしたこと、あれが罪なのだろうか?
生存し続けることの壮絶さ、人が人を裁くことの重み、あらためて押しつぶされそうなほど実感させられた。一人だけで語るお芝居でありながら、これほどまでに奥深い問いかけを投げかけられるものか。加藤健一、渾身の傑作である。
|